【写真の中に、14歳の僕がいた】

祖母の葬儀に出席した。
前の記事で、祖母が亡くなってから「人の最期」について考えたことを書いた。
人の人生には終わりがあること。
家族と一緒に過ごせる時間にも、いつか終わりが来ること。
だから、今ある時間を大切にしたいと思った。
そして葬儀に出席して、もう一つ強く思ったことがある。
思い出は、残しておいた方がいい。
写真でもいい。
動画でもいい。
何気ない日常でもいい。
その時には何の価値もないように思える一枚が、何十年も経ってから、とても大切なものになることがある。
祖母の葬儀で、そのことを実感した。

祖母の人生を振り返る写真
葬儀では、祖母の人生を振り返る回想の動画が流れた。
昔の写真が、一枚ずつスライドになって映し出されていく。
若い頃の祖母。
家族と一緒に写っている祖母。
僕の知らない時代の祖母。
写真を見ていると、一人の人間が長い時間を生きてきたことが、不思議なくらい伝わってくる。
そして、何枚かの家族写真が流れたあと、一枚の親族集合写真が映った。
そこに僕がいた。
たぶん14歳くらいだったと思う。
思春期真っ只中の僕だった。
14歳の僕は、笑っていなかった
その写真を見て、少し笑ってしまった。
いや、笑ったというより、なんとも言えない気持ちになった。
何がそんなに面白くなかったのだろう。
親族みんなで集まって写真を撮っているのに、僕だけふてくされたような顔をしている。
カメラの方をちゃんと向きもせず、横顔でこちらを見ている。
きっと、本当につまらなかったわけではない。
家族が嫌いだったわけでもない。
祖母が嫌いだったわけでもない。
ただ、14歳だったのだ。
みんなと一緒に笑うことが、なんとなく恥ずかしかったのかもしれない。
楽しそうにすることが格好悪いと思っていたのかもしれない。
親や親戚と一緒にいるところで、素直に笑うことができなかったのかもしれない。
今なら、なんとなく分かる。
でも、50代になった今の僕がその写真を見ると、
「なんでもっと笑ってないんだよ」
と思う。
せっかく、みんながいたのに。
せっかく、祖母もいたのに。
もう二度と撮ることのできない写真なのに。
14歳の僕には、そんなことは分からなかった。
一枚の写真が、40年以上前を連れてきた
不思議なものだと思う。
40年以上も前のことなのに、一枚の写真を見るだけで、その頃の自分が蘇ってくる。
その場の空気まで思い出せそうな気がする。
そして写真の中には、今ではもう会えない人たちもいる。
当時は、それが当たり前だった。
祖母がいることも。
親戚が集まることも。
みんなで写真を撮ることも。
何も特別なことではなかった。
でも、その「何でもない一日」は、40年以上経った今となっては、どれだけお金を払っても戻ることのできない一日になった。
写真は、その一瞬だけを残してくれていた。
しかも、そこに写っていたのは家族だけではなかった。
僕自身だった。
ふてくされて、素直になれなくて、ちょっと格好つけている14歳の僕。
そんな僕も確かにここにいて、祖母にとっては大切な孫の一人だったのだと思う。
会いに行く時間はいくらでもあった
葬儀が終わってから、何度も考えてしまうことがある。
祖母が施設に入ったことは知っていた。
会いに行こうと思えば行けた。
忙しかった。
仕事もあった。
家のこともあった。
勉強もしていた。
いろいろな理由はある。
でも、本当のところを言えば、
会いに行く時間くらい、いくらでも作れた。
休日に何時間もYouTubeを見ていた日だってあった。
スマホを眺めながら、なんとなく時間を過ごしていた日だってあった。
「また今度行けばいい」
どこかで、そう思っていたのだと思う。
祖母は90歳を超えていた。
頭では分かっていた。
それでも心のどこかでは、まだ時間があると思っていた。
でも、「また今度」は来なかった。
あの日YouTubeなんか見ていないで、会いに行けばよかった。
たった一時間でもよかった。
顔を見て、
「ばあちゃん、元気?」
それだけでもよかった。
今となっては、それができない。
この後悔は、たぶんしばらく消えないと思う。
写真を撮っておこうと思う
だから僕は、これからもっと写真を撮っておこうと思う。
別に、特別な場所でなくてもいい。
旅行じゃなくてもいい。
きれいな景色じゃなくてもいい。
妻がご飯を食べているところ。
娘が笑っているところ。
犬たちが寝ているところ。
ロードトレックの中で、みんなでダラダラしているところ。
そんなものでいい。
むしろ、そんな写真の方が何十年後には大切なのかもしれない。
娘がカメラを向けられて嫌そうな顔をしていても、それでいい。
今の僕には分かる。
その顔だって、いつか宝物になる。
「この頃は写真を撮られるのが嫌だったんだよな」
そんな話をしながら、何十年後かに一緒に笑えるかもしれない。
僕が14歳の頃の写真と同じように。
思い出は、残しておかないと消えてしまう
前の記事で、僕は「思い出は持っていける」と書いた。
それは今でもそう思っている。
でも今回、もう一つ気づいた。
思い出は、残しておくことも大切なのだ。
人間の記憶は曖昧だ。
どんな顔をしていたのか。
どんな服を着ていたのか。
誰が隣にいたのか。
時間が経てば、少しずつ忘れてしまう。
でも写真には残る。
動画には声まで残る。
そして何十年後、たった一枚の写真が、忘れていた時間を連れてきてくれることがある。
祖母の葬儀で流れた一枚の写真が、40年以上前の僕を連れてきてくれたように。
ふてくされた顔をした14歳の僕。
その隣には家族がいて、祖母がいた。
あの頃の僕は、その時間がいつか終わるなんて考えてもいなかった。
今なら分かる。
あの一枚は、ただの親族写真ではなかった。
もう二度と戻ることのできない、僕たち家族の時間そのものだったのだと思う。
だから、これからはもっと残しておこう。
写真を撮ろう。
動画も撮ろう。
そして、それ以上に、
写真に残したくなるような時間を、大切な人たちと過ごそう。
いつか僕自身にも最期が来る。
その時、娘が昔の写真を見返すことがあるかもしれない。
ロードトレックの前で笑っている家族写真を見つけるかもしれない。
「お父さん、こんな顔してたんだ」
そう言って笑うかもしれない。
それでいい。
その写真の中に、
妻がいて、
娘がいて、
犬たちがいて、
僕がいる。
そんな何でもない一枚を、これからたくさん残しておきたいと思う。
祖母が、40年以上前の一枚の写真を僕に残してくれたように。